父にとっての乳

学生→彼→夫→父の変化に戸惑う人の日記

父になる(なった)?

 11月末、子どもが生まれる。

 30代、男。妻の状態が安定していて里帰り中なこともあって、できた時間にこれまでのもやもやとこれからのもやもやを記録しようと思う。イクメンとは程遠くて、夫から父へという変化にうじうじしている様子を記録できたらと思う。

 

 まず、私は父に「なる」のか、「なった」のか。妻は妊娠がわかってしばらくしたら間違いなく「母」になっていたように思う。一方、私は11月末に父に「なる」と言ったほうがしっくりくるような気がする。周りからも、お父さんになるんだね、といった言葉をかけられる。私はまだ父ではない。気がする。

 たぶん妊娠中の生活や家事などは相当程度やっているし、しんどくないと言えばうそになる。がんばりは妻も驚くほどのようでそこを認めてもらえたのは素直にうれしい。しかし、それが「父」としてやったことかといわれるとやはり微妙で、妻のお腹に子どもがいることはわかりつつも、子どもではなく、「母」である妻でもなく、やはり「妻」である妻を労わるという動機づけが強かったように思う。しんどそうな妻を見て、母子を案ずるというよりは風邪をひいた妻を看病するという感覚に近い。

 なにより子どもにお腹越しに相対したときの自分の無力さを感じているし、それが翻って疎遠な感じを抱かせる。例えば、妻のお腹が張っていたりするときや切迫早産の恐れがあるときなどは本当に何もできない。すべては妻の体一つにかかっている。その意味では妻はずっと最初から「母」なんだと思う。

 

 このことは妻からの言葉が変わったことからもよくわかる。日常的におっぱいを堪能させてもらっているが、以前は「おっぱい舐めて(舐めないで)」と言われていたのが、「おっぱい吸わないで(吸って)」になったのだ。ここには二つの転換があった。まず行為の形容が「舐める」から「吸う」になったこと、そしてより重要なことにはベースラインが舐めて(要求)から吸わないで(拒否)になったことだ。

 ある日妻ははっきりと「もうおっぱいはうまれてくる赤ちゃんのものだからね」と宣言した。当時、そして多分今も「夫」という自己認識を強く持つ私は動揺した。おっぱいに触れられない。絶望。反射的に、「俺のものでもある」と言ったが呆れられた。そう、この時点から「私のおっぱい」だった妻の胸部は「子どもの乳」になったのだ。つらい。あまりにも突然すぎる。

 いや、頭ではわかっているつもりだ。重要なのは子ども。私もそう思う。でもちょっと待ってほしい。学生時代から付き合いをはじめ、結婚して、ずっとそこにあったおっぱいがなくなること(もとい、恋人であり妻であった女性が母になること)。その喪失感はことのほか大きい。もちろん子どもが生まれてくるのは不安でもあるが、不安がいっぱいだけど、楽しみだ。今までにない責任も感じている。しかしそういうしっかりした正しい感情と並行して、未練や戸惑いがあるのもまた事実だ。

 夫として「乳」を眺めている私は、父として「乳」を眺められるのだろうか。おっぱいを吸っている子どもに嫉妬しないだろうか。父として乳を見たときそこにはどのような光景が広がっているだろうか。夫以上父未満な私は先日、「母乳を最初に飲むのは私だ」と宣言して妻を実家に送り届けたばかりだ。早2週間が経とうとしているが、おっぱいが恋しい。